SUMIE NOBUHARA
JAY STRUTHERS
CO-STARRING
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AND FEATURLING
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WITH
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NANCY ARAKI
FROM A STORY BY
SUMIE NOBUHARA
スミエとジェイ[グリーン・カードより]
「EXT・ビーチの夜明け。人気のない海岸のショット。ジェイ:スミがこんなに真剣なるなんて思ってもみなかったよ。日本人だからこんなことにはなんないと思ってた。クソ、見合いとか芸者はどうなっちゃったんだ。ダニ:そんなの昔のことさ。世の中変わったんだ。ハリウッド映画のせいだよ。日本人の若い奴らは俺たちの持ってものが欲しいんだ。若いうちに家を出る自由。自分の恋人を選ぶ自由。例の恋愛っていうロマンチックなお伽噺さ。それさえあれば自由になると\連中思っているんだ。恋愛なんて自由じゃないのにな。」(ヴィデオ、「グリーンカード:アメリカン・ロマンス」より。)
五十年前に科学者は、理論を真実か否かで評価した。だが「現代科学」においては違う。現代の科学者は理論が役に立つかどうかを問うのだ。これは現代人が本当の真実の形を発見しようという考えを放棄したためである。今、科学者はこういうだろう。「本当の真実の形とはもっとも良く機能する形である」と。
ルネッサンス時代に真実は二つの別々な部分に分けられるという見方が一般的になった。二つの部分とは心(意識)と物(その他の真実)である。この考えのおかげで人が自分の「外」の真実をコントロールする力は急速に強まった。特に医学と物理学にこの傾向が強かった。このように真実の誤った見方は、人が人間の行動(内なる自己)を現解する力をひどく制限してしまうということだ。
ルネッサンス時代の科学者ガ記述した真実は、全ての物が理性の神によって造られたという理念に基づいている。そのため宇宙の全ての物に同じ原則と法則が適要できると考えられた。こうした信仰に基づいて科学は真実の姿を明らかにするいくつかの原則を設定したのである。
科学における第一の法則はすべてのものが「質量化できる」ということである。ある意味でこれは全ての物が数学的に処理しうる部分へと分解することが可能だということにつながる。
次の法則は「因果関係』である。全ての実象はそれ以前に起った。何かが原因となって起こるという信念である。機能しているシステムを本当に理解しており、現在何が起っているかが分かっていれば、将来何が起るかを予測しうると科学は主張した。 最後の法則は宇宙内の何かを理解しょうと思ったら、その物の機械的モデルヲ作れねばならないということである。自分の目で、あるいは類推によってその様をみる事が出来なくてはならない。「真実とは目に見え、触れられるものである」。
社会科学者が真実に関するこうしたコンセプトを人間の行動に応用するという場合、エネルギーや物質を研究する科学者と同じ原則を用いているということである。科学の力が強大になるにつれ、行動を科学の原則に従って説明しなければならないというプレッシャーも大きくなる。そういうわけで人間の行動を整理しようとする全ての試みが、右に挙げた法則を使って来たのである。ダーウィンからフロイド、マルクスに到るまで、行動を機械的に説明できるようなモデルを作ったのである。
社会科学者達は西洋科学の記述した真実に縛られており、失敗するのが当たりまえなのである。 人間の行動が科学的に説明できるということは、人間の行動が機械の動きと同じように、予測でき統御できるということと同じである。 人間の行動が完全に予測できるとすれば、「自由意志」とか「目的意識」といったものは存在し得ない。しかし科学者も人間である限り客観的に行動できるはずがない。それでいて自らの下す結論を予め決定してしまう。科学の原則から言えばこの結論は無効である。キャッチ22の世界だ。西洋社会は、人が自分の行動を理解し統御できるように、真実を定義しこなったのである。その直接の結果として今や破局的な情況にあるのだ。「十七世紀最大の発見は、見て触れて調べられる範囲でわかった真実のモデルがどこにでも使え、原子から社会に到る全ての物を説明できるということだったろう。二十世紀最大の発見はそれが実はそうではないということのようだ。」
スミが自己を解放しようともがいているのは、西洋科学の「理性の宇宙」が創った廃墟の中である。ロサンジェルスのアーティスト、ブルース と ノーマン・ヨネモトのヴィデオテープ、「グリーンカード:アメリカン・ロマンス」はテーマを告げる延原住江の声で始まる。
『記憶の中ではどの真実がより真実であるかを知ることは決してできない。」年老いて死を前にした住江が、現在のLAで起った物語を語るのである。
「グリーンカード」の筋は二つのレベルで存在する。第一のレベルではアメリカに住む日本人のアーティスト、ノブハラ・スミエを描く。学生ビザを失った彼女は永住許可証を得るためにアメリカ人と結婚せざるを得なくなる。日本へ帰れば将来は過去によって決定されてしまう。アメリカに留まることで、自由意志で未来を創造できるとスミは信じている。
アーティストのゲイリーとサーフ映画の制作者ジェイの二人が喜んで花婿になろうと言う。スミはジェイと結婚するが、すぐに文化的圧力のせいで偽装結婚が本物になってしまう。少なくともスミにとっては本物なのである。しかしジェイは持ち前の『ワイルドな生き方』を変えず、スミは傷ついて、ついに自由の奇妙な姿に気づき始める。
『スミ;自由になりたくてアメリカに来たのに、ここも日本と変わらない。結局まだ幸福は男を通じて探すもんだと思われている。このお伽噺は、日本とかアメリカとか男とか女とかには限らないんだ。家族とか友達とか人間関係、それから愛までも、どう見るかはマス・メディアのプロパガンダなんだわ。」
『グリーンカード』における第二のレベルの筋は人間が真実をどう認識するかについてである。スミエは自分の文化が形成した真実を外国のため、そして新しい真実の定義のために捨てる。だか古い真実の上に自分のアイデンティティを築いていたから、周囲の真実が彼女の物の見方を指示しないために自己を破壊させかける。ゆっくりと何が本当で何が本当でないかに関する様々な定義(物語の中の他の登場人物によって代表されている)を観察することによってスミエは唯一無二の真実など存在せず、多くの等しい有効な可能性としての真実があるという結論に達する。
『スミ;一生あなたの意識のレベルで生きることはできない。私が真実だと思うものを拡げなくちゃ。でも一人でやるのは大変だわ。この真実という境界を取りはらう力が必要なの。メロドラマの折から逃げるために。』
新しい物の見方を身につけてスミエは真実の西洋的定義から自由になれた。この新しいイデオロギ−の中には多くの真実が共存する余裕がある。この新しい宇宙の中には自由意志と目的との存在する余裕がある。ついにスミエは愛と科学の共存できる真実を見いだすのだ。真実とは人間だというわけである。
Sumie and Jay "Green Card An American Romance"
スミエ[グリーン・カードより]
Sumie "Green Card An American Romance"
[グリーン・カード, ジェフリー・バレンスより]